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5月の米寿のお祝いのときには、支えられながらも自分で歩いて、しっかり話して、ごはんも食べて、庭のさやえんどうを一緒に摘んで、 私と姉に「もうあげられないかもしれないから」って大きな額のお小遣いをくれて、 ばあちゃんそんなこと言わないでよって言って痛がる背中をさすって別れて、 6月に会いに行った時には、ばあちゃんはばあちゃんなのに、会話ができなかった。 晴れたり、曇ったり、曇りばっかりの日だったり、波はあってもいつものばあちゃんの時間があったのが、父から電話で「ばあちゃん、もうなんにもわかんなくなっちゃったよ」って聞いて、5月のあのときがほんとに最後だったのかと思ったら悲しくて悲しくて。 人生がゆっくり閉じていくのを、いつかは自分も通る道を、今までこんなに深くは考えなかった。 人生が終わることを、自分自身がわからないでそのときを迎えてしまうのは、悲しむことも惜しむことも、振り返って満足することもできないのは、どうしようもないことだけどすごく寂しい。 ばあちゃんが最後に自分に戻ったときが、幸せだったらいい。身体の痛みもなくて、頭はクリアで、伝えたいことを言葉にできて、思うように動けて、会いたい人に会えたらいい。 そんなにうまくいかないのかな。 全然孝行してこなかった。せめて花嫁姿を見てほしかったし、ひ孫も抱いてほしかった。 間に合わないのかな。あとちょっとなのに。 あと一年違っていたら、間に合ったのに。 PR COMMENTS
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